有田焼は主に佐賀県の有田町で生産されてきた磁器です。有田で作られた磁器を有田焼と呼ぶようになったのは明治時代からで、明治以前は伊万里焼という名称で知られていました。有田町で磁器が作られるようになったのは、17世紀の初め頃だとされています。きっかけは豊臣秀吉の朝鮮出兵で、佐賀藩主である鍋島直茂が朝鮮から連れ帰った陶工のなかに、李参平という人がいました。李参平は佐賀で陶器を製作していたのですが、なかなか思い通りの作品を作り出せなかったため、質の良い原料を探す旅にでることにしました。そして有田東部にある泉山で白磁鉱を見つけ、日本で最初に白磁を焼いたといわれています。この発見がもととなって有田では焼き物の生産が盛んに行われるようになり、1637年には藩が有田にある窯場を整理して、生産の管理も行うようになりました。 初めの頃の有田焼は白色の素地に藍色のみで模様を描いたものが多く生産されていましたが、1640年代になると初代酒井田柿右衛門が赤絵付けに成功します。1688年からは金襴手様式と呼ばれる華やかな文様が特徴的な作品も生産されはじめ、ヨーロッパでも人気を呼びました。その後も明治時代の万国博覧会に出品した作品が好評を得るなど、有田焼は日本のみならず海外でも高い評価を受けます。1977年には経済産業大臣指定伝統工芸品にも指定され、長い歴史と独自の魅力を持つ磁器として各地で愛されています。

有田焼の特徴って?

有田焼は繊細で優雅な雰囲気の絵付けと素地の白色の美しさ、そして磁器ならではの丈夫さと触ったときの滑らかさが特徴的な焼き物です。原料に使われているのは泉山陶石や天草陶石で、この2つはほかの土を混ぜずに磁器を作ることができる珍しい陶石としても有名です。陶石はガラス質を多く含んでおり、有田焼ではこの石を粉々に砕いて使います。焼成すると白色の素地ができあがり、固く水を吸いにくい焼き物になります。 有田焼の製作は分業制になっており、成形や絵付など、それぞれの工程を専門の職人が担当し、皆で協力して作り上げていきます。実際の作り方としては、まず初めに陶土を成形し、約900度の温度で素焼きします。次に呉須という絵の具で下絵付けをしてから、釉薬をかけます。その後、1300度で焼く本焼成を行い、上絵付けを施します。最後に作品を上絵窯にいれて700から800度で焼けば完成です。

異なる魅力を持つ有田焼柿右衛門様式と金襴手様式

有田焼には柿右衛門様式や金襴手様式など様々な様式があり、それぞれの違いを楽しむこともできます。柿右衛門は赤絵磁器の作成に初めて成功した人物とされており、初代からその名が受け継がれています。素地は濁手素地とも呼ばれることがある乳白色なのですが、江戸時代の中ごろになると金襴手様式が人気になり、製作が途絶えてしまった歴史があります。やがて12代柿右衛門が濁手素地を復元することに取り組み始め、1953年にその取り組みが成功し、1955年には無形文化財にも選ばれました。柿右衛門様式は白色の余白に描かれた花や鳥の絵柄の優美さと高級な価値が特徴的で、夫婦湯呑みやマグカップなども販売されています。 金襴手様式は絵付けしてから金を焼き付ける様式で、豪華絢爛な文様が特徴的な磁器です。多彩な色合いで丁寧に描かれた絵柄が麗しい作品や、高級感溢れる作品が数多く生み出されています。配色が金襴という織物にも似ていることから、金襴手という名が生まれたそうです。この様式は1つの色ごとに焼成作業を行う必要があるため、作品が完成するまで長い時間がかかることもあります。1972年に再興された福右衛門窯では、総手描きで金欄手様式を製作する伝統が守られており、作品を手にとってみることで職人の技術の素晴らしさを感じることができます。

古伊万里焼の踏襲

すでに様式を受け継ぐ人もいなくなったと思われてきた金襴手様式ですが、現在2社が最後の作品を作り続けているようですね。

現代において古伊万里焼、金襴手様式は滅亡の危機にあり、基本的には転写品(プリント品)による量産品が多く出回っています。その中で時代にあらがいながら往年の最高峰の古伊万里様式を作成し続ける窯元もおります。有田焼専門店JTOPIAでは、現代で唯一献上古伊万里焼と献上金襴手様式を手描きで作成する福右衛門窯と梶謙製陶所の作品を特別販売しております。

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